「わたし」の人生 我が命のタンゴ

2012年の日本映画である。

何ともタイトルと映画の中身が違うといえば言えなくもない。

最初はダンスの映画か恋愛映画と思った。ダンスは主役ではない。老いと家族をテーマの映画である。

暗闇にも思われる認知症介護。そこに一つでも小さな灯りをともすかもしれないダンス。そんな感じの映画でもある。

誰にでも来る可能性がある老いとボケ。避けておきたいけれど、避けたからといって関係ない状態になるわけではない。

主人公、百合子の母親の葬式から映画は始まる。百合子の父は大学の名誉教授。英文学の教授である。その彼が警官を殴って警察のご厄介になる。主人公は信じることができない。ついで父親は痴漢をする。また、警察の厄介になる。警察で会った父親はまったく普通の状態でボケなどというものは一切ない。警察から言われて異変に気づきはじめる。妻を亡くしたことからくるショック症状か。

ここまでは観客も実際の現場を見せられないので、半信半疑であろう。主人公にとって、警官に言われた感覚はまさに観客のそれであったかもしれない。

父を病院に見せたことから病名がわかる。認知症である。ここから彼女の闘いがはじまる。だが、この闘いに勝者はいない。闘いをやめ、お互いが家族であることをしっかりと認識しあうことで、別の方向性が見え始める。

この種の話に正解はない。仮にその当人にとって正解であったとしても、万人に通用するとは限らない。

私の母は認知症になりかけた。結局なっていたのかもしれない。最終的には要介護5までいった。

もともと、杖なしに歩行できなかったし、ベッドの上で独力で座っていることができなかったので、要介護5が認知症のためだけではないのは確かである。

しかし、ある時期には私が誰であるかわからなかった。感情のコンロトールができなかったこともある。それは施設に入所していた時期であったから、私はさほど苦労していない。

もっとも、施設であったために認知症が進んだのかもしれない。

いずれにせよ、最終的には自分が誰かは分かっていた。

私のことも誰であるか理解していた。

自分が死ぬ時までも予見した。

 

さて、映画の百合子は仕事を持っている。この仕事に支障をきたす。まじめな人ほど、介護に真剣に向き合おうとすればするほど、自分の生活が影響を受け、楽しみにまわす時間が少なくなる。父親への遠慮もある。相手のことを思えば思うほど、言わなければならないことを言えなかったり、ストレスを感じながら言ったりする。

言ったことで喧嘩になったりもする。

理想的な子供でありたい。親が喜ぶ介護をしたいという気持ちが、介護する側を追いつめる。介護する側も限界になってしまう。

 

この映画では父親は最後のところまで描き切られているわけではない。

そうであるから、綺麗ごとで済んでいるようにも思えるし、また、見る人によっては、今後の展開の大変さが伝わりもする。

 

一種「介護あるある」的な話が詰まっている。介護の現実の一旦を知ることができる映画ではある。