悪魔の手毬唄
世の中には、名作といわれているわけではなく、観て感動したわけでもなくても、何回か観てしまう映画というものがあるように思う。
私にとっては、この作品もその一つである。
そもそも、この作品をよく観るのは自分の学生時代に繋がっているからかもしれない。
角川映画で作られた作品をよく観た。
当時の流行であったからである。若い時代というものは流行に後れるとなんだか人格さえも否定されるように思うものである。
年齢を重ねていけば、流行を追うことがあまり重要でないことがわかってくる。
もっとも、私が愚かであるから若いうちから分からなかったのかもしれない。
さて、この作品は老婆がカギを握る。また、原作者の横溝正史が得意な数え唄の類もカギを握る。
例によって金田一は犯人の意図とした殺人がほぼ終了するまで、解決できない。まあ、それは原作がそうであるから映画の責任ではない。
今から考えると贅沢な俳優を使っていた。公開当時、「豪華俳優の・・・・」といった宣伝文句を聞いた覚えはない。が、それは私の記憶違いかもしれない。
まず、岸恵子。この人の演技が光っている。事件の概要が分かるとまた違った感覚で観ることができる。
「あ~この表情はそういう意味だったのか」と思うことができる。いい役者さんの演技にはひとつひとつ意味があるのだなぁと改めて思う。
そして中村伸郎、辰巳竜太郎、草笛光子、白石加代子、渡辺美佐子、三木のり平、山岡久乃、若山富三郎らの演技もいい。
そして、仁科明子。きれいでした。
映画を観るときは誰が犯人であるかは知っていた。それでも、ストーリーで飽きるという感じはしない。結末が分かっていても観てしまうミステリー映画である。
そういった映画が昭和の作品に多いのはこちらが年をとったということであろうか。
(文中 敬称略)
「わたし」の人生 我が命のタンゴ
2012年の日本映画である。
何ともタイトルと映画の中身が違うといえば言えなくもない。
最初はダンスの映画か恋愛映画と思った。ダンスは主役ではない。老いと家族をテーマの映画である。
暗闇にも思われる認知症介護。そこに一つでも小さな灯りをともすかもしれないダンス。そんな感じの映画でもある。
誰にでも来る可能性がある老いとボケ。避けておきたいけれど、避けたからといって関係ない状態になるわけではない。
主人公、百合子の母親の葬式から映画は始まる。百合子の父は大学の名誉教授。英文学の教授である。その彼が警官を殴って警察のご厄介になる。主人公は信じることができない。ついで父親は痴漢をする。また、警察の厄介になる。警察で会った父親はまったく普通の状態でボケなどというものは一切ない。警察から言われて異変に気づきはじめる。妻を亡くしたことからくるショック症状か。
ここまでは観客も実際の現場を見せられないので、半信半疑であろう。主人公にとって、警官に言われた感覚はまさに観客のそれであったかもしれない。
父を病院に見せたことから病名がわかる。認知症である。ここから彼女の闘いがはじまる。だが、この闘いに勝者はいない。闘いをやめ、お互いが家族であることをしっかりと認識しあうことで、別の方向性が見え始める。
この種の話に正解はない。仮にその当人にとって正解であったとしても、万人に通用するとは限らない。
私の母は認知症になりかけた。結局なっていたのかもしれない。最終的には要介護5までいった。
もともと、杖なしに歩行できなかったし、ベッドの上で独力で座っていることができなかったので、要介護5が認知症のためだけではないのは確かである。
しかし、ある時期には私が誰であるかわからなかった。感情のコンロトールができなかったこともある。それは施設に入所していた時期であったから、私はさほど苦労していない。
もっとも、施設であったために認知症が進んだのかもしれない。
いずれにせよ、最終的には自分が誰かは分かっていた。
私のことも誰であるか理解していた。
自分が死ぬ時までも予見した。
さて、映画の百合子は仕事を持っている。この仕事に支障をきたす。まじめな人ほど、介護に真剣に向き合おうとすればするほど、自分の生活が影響を受け、楽しみにまわす時間が少なくなる。父親への遠慮もある。相手のことを思えば思うほど、言わなければならないことを言えなかったり、ストレスを感じながら言ったりする。
言ったことで喧嘩になったりもする。
理想的な子供でありたい。親が喜ぶ介護をしたいという気持ちが、介護する側を追いつめる。介護する側も限界になってしまう。
この映画では父親は最後のところまで描き切られているわけではない。
そうであるから、綺麗ごとで済んでいるようにも思えるし、また、見る人によっては、今後の展開の大変さが伝わりもする。
一種「介護あるある」的な話が詰まっている。介護の現実の一旦を知ることができる映画ではある。
天使の分け前
2012年、イギリス、フランス、ベルギー、イタリアの合作映画。
原題はThe Angels’ Share
ちょっと心温まるお話。ちょっとドキドキさせて、ちょっとニヤリとする。辛口なコメディーである。
マッサンで話題になったウィスキーの醸造についても出てくる。
ロビーという男がいる。他人を傷つけ、罪を犯し、罰を受ける。そんな人生をだが恋人がいる。その彼女とロビーの間に子供が生まれようとしている。
ある事件で有罪を受けたロビーは、彼女の必死の懇願と父親になるという事実のおかげで刑務所入りを免れ、社会奉仕活動をすることになる。そこで彼の人生を変える男ハリーに会う。
ハリーは社会奉仕活動を監督する人。ハリーによってウィスキーのロビーはウィスキーのテイスティングに興味を持つ。子供が生まれて前向きに生きようとするロビー。だが、昔の仇は彼をほっておいてはくれない。ロビーも怒りが燃え上がったときにに自分を押さえる自信がない。せっぱつまった彼は・・・。
この種の映画では、ちょっとした「?」は目をつぶる必要があるかもしえない。面白くするために必要であればある程度は許容されるべきかもしれない。所詮フィクションの世界だから、完全なリアルはないのであろう。
この作品にはイギリス人のアメリカ人に対する考え方のひとつが出ているように思う。お金を持っている成りあがりには本物の良さは理解できないってところであろうか。詳しくは映画の中でどうぞ。
あと、ハリー役のジョン・ヘンショウって人がいいね。この人、TVを中心に活動している俳優さんらしい。でも、このお腹の出具合というのは、いかにもありそうでイイ。この種の仕事はストレスがたまるだろうし、おまけに酒を愛する人という設定だから・・・。
さて、天使の分け前とはこの場合、ウィスキーの醸造においては、何がしかの量が蒸発してしまう。これを言う。このタイトルが何故つけられたかも映画を観ればよくわかる。
海の上のバルコニー
2010年のフランス映画。
幼なじみというものは特別な感情があるものらしい。それは、年齢がどれほど重ねられても忘れられないものなの,むしろ年を取ればさらに加速していくものらしい。
さらに、少年期に家庭の事情による別れでも経験した相手なんぞであれば思い出は美しすぎるものになり、いつまでも輝き続けるものになるのかもしれない。
主人公のマルクは優秀な不動産業者であり、美しい妻と素直な女の子がいる。収入の不安もない。
まさに絵に描いたような幸福な家庭を築いている。そこに一つの出会い。それによって人生が変わる。
一人の女性が不動産の買い手として出現する。マルクは、この女性に何故か見覚えがある。そう幼なじみなのだ。自分も相手の事がわかり、相手も自分を覚えていた。ここで、二人の間に何も起こらないわけがない。まさしく少年期に家庭の事情で別れた人だから。
だが、話は見る人の思う方向へは簡単に進まない。そこはフランス映画。
マルクが幼なじみと思った人物がすでに死んでいたという事実が判明する。では、彼の前に現れた人物は誰。そこからミステリアスな展開になる。
マルクの前に現れたのは幼なじみには違いないが、マルクの思っていた人物とは別の人物。マルクもその人物の名を知ることとなるが・・・。
結末に至るところは実に切ない。このテイストはフランス映画でないと出せないかもしれない。まさに人間を描く映画である。
この映画をミステリーとしてみると、期待外れになる。マルクの前に現れた人物が誰かもすぐに観客に示される。なぜ現れたかも。その後の展開も単純である。
ただ、男と女の物語として見れば、そこには人間模様が、人間の感情が描かれている。そう、どうしようもない人間の感情が。
マルクの思いやマルクの幼なじみの感情だけでなく、幼なじみの父親、マルクの妻。それぞれの感情がそれとなくに描かれた作品である。
恋とか、幼なじみとか、そういった昔のことを考える休日の午後になんかに観ると、ちょっと幸せな時間を過ごしたように思うかもしれない。
ちなみに、マルク夫人を演じているのは『シャンボンの背中』にも出ていたサンドリーヌ・キベルラン。
こちらの一方的な感じだが、このところご縁がある女優さんだ。
黒いスーツを着た男
2012年のフランス映画。
原題はTrois mondes。三つの世界という意味だそうです。
アランはま10日後に社長の令嬢との結婚を控えている。
会社の友人とバカ騒ぎをした際に一人の男性を自動車ではねてしまう。
友人たちの勧めに乗ったアランは男性を事故現場に残して逃げる。
だが、そこには目撃者の女性がいた。ジュリエットである。ジュリエットは警察に事故の連絡をし、被害者の家族にも連絡をする。アランが様子を見に病院を訪れたときに、彼女はアランを尾行してアランの生活を知る。
こうして、事故を起こしたアランの世界、事故を目撃したジュリエットの世界、事故に遭った不法滞在のモルドバ人であるヴェラとその夫の世界が交わることになる。
轢き逃げした人間が本当に悪人であれば告発するのに躊躇いはないが、それがまともな人間で、事故を起こしたことを悩んでいたりすると、告発を躊躇してしまう。優しい人物であるがゆえに、警察に告発することも、被害者に話すこともできない。しかし、話さないですませられるわけもなく、結果的に他人に優しいということが、時として他の他人を傷つけることになってしまう。人生は一筋縄ではいかないものである。
一つの事故が何人もの人間の人生を狂わせる。
見終わった感覚はまさにフランス映画。そこに解決方法が示されているわけでもなければ、勧善懲悪の世界が展開するわけでもない。運命に従わざるをえない人間の孤独、哀しみが胸をよぎるだけである。
真珠の耳飾りの少女
2003年のイギリス映画。ルクセンブルクと合作です。
17世紀オランダの画家であるフェルメールの作品『真珠の耳飾りの少女』からの着想で書かれた小説の映画化だそうです。
原題はGirl with a Pearl Earring。
この映画はこの絵画のモデルとなった少女について描いています。彼女を画家の家にいたメイドという解釈をしています。物語は彼女が訳があってメイドとして勤めに出るところから始まります。
彼女がフェルメールの家に勤めることで、いろいろな変化が起こるわけです。彼女自身の人生、そして、フェルメールの人生に。さらに彼女がモデルをつとめることで、フェルメールの妻、妻の母親、それぞれの人生に影響します。
さて、その結果は・・・。
この映画、まるで絵画を見ているような感覚を覚えます。とにかく画面が綺麗で、ひとつひとつのシーンが絵画的な感じがします。おまけに、台詞を短く、また少なくしているため、さながら絵画の中に自分がいるようさえに感じます。
起承転結はしっかりありますが、アメリカ映画のようにはっきりしているわけではありません。
ちょっと、心に余裕がある昼下がりなんかに観るといい映画かもしれません。
ロリータ
1962年のイギリス映画。
霧の日に、荒廃した建物に入ってきた男が一人の男を殺すところから映画は始まる。
監督はあのスタンリー・キューブリック。
殺す男、ハンバート・ハンバートをジェームズ・メイソンが演じている。
この人、『北北西に進路を取れ』やジュディー・ガーランド版の『スタア誕生』などに出演しているイギリスの俳優さん。
一方、殺される側の人はクレア・キルティ。名優ピーター・セラーズが演じている。この人は、あの『ピンク・パンサー』シリーズのクルーゾー警部や『チャンス』に出演している。これまたイギリスの俳優。
さて、なぜ殺す殺されるの関係が二人の男の間で成り立ったのか。それがハンバートの回想によって明らかになっていく。
ハンバートはアメリカの田舎町で下宿先を探していた。下宿先候補の一つにある未亡人の家があった。この未亡人の名はシャーロット・ヘイズ。彼女がハンバートの恋の対象ではない。そのシャーロットの娘ロリータにハンバートは心を奪われてしまう。
ロリータのそばにいたいために、シャーロットの家に下宿し、シャーロットと結婚までする。
こうして、ハンバートは破滅の一歩を踏み出す。
シャーロット・ヘイズを演じるのはシェリー・ウィンタース。この人『ポセイドン・アドベンチャー』で元水泳選手の中年婦人を演じていました。このときは相思相愛の旦那さんがいました。この人はアメリカで主に活動した女優さん。
話をもとに戻すと、いろいろあって、シャーロットが死んでしまう。ハンバートはおおっぴらにロリータを独占しようとする。若い女性に心を奪われた中年男。まさに、一種の狂気の世界に入って行く。
この過程において、殺される男であるクレア・キルティがちらちらと登場する。
この人とっても怪しい人だが、この役をピーター・セラーズはうまく演じている。
心理学者に化けてハンバートに会うシーンではクルーゾー警部が変装しているかと思ってしまった。
結局、ハンバートはロリータに翻弄され、最後にはキルティを殺すことになってしまう。
中年男が若い女性に恋すると、熱い思いよりも哀れさを大きく感じてしまうのは、こんな結末になることがあるからだろうか。